野村徳七(二代)のプロフィール
第二代野村徳七(のむら とくしち)
・1878年8月7日 – 1945年1月15日、大阪府出身。
・両替商の野村徳七 (初代)の長男で野村財閥を築いた二代目。
・1918年に大阪野村銀行(後の大和銀行、現在のりそな銀行)を設立、大阪野村銀行証券部は1925年12月に野村證券として独立し翌年1月に営業を開始した。
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野村徳七の名言 20選
(1) 常に一歩前進することを心がけよ。
停止は退歩を意味する。
~野村徳七~
(2) 決断、実行したあとは笑って遊べ。
~野村徳七~
(3) 必要な猛進はやらねばならぬ。
~野村徳七~
(4) 会うたびに目新しいことを言う人は人当たりがよくて人気者になるが、それは確固たる一つの信念を持っていないことの証拠だ。
信頼し得る人物ではない。
人に好かれることと信頼されることとは別物だ。
~野村徳七~
(5) もとより1本の電話と1台の自転車で20歳未満の青二才が、どうかけずり回しても、そう大した注文をしてくれるはずもありません。
しかし私はめぼしい当時の大阪の資産家の門を恥じることなく叩きました。
毎日、根気よく相場表を持って回り続けました。
中には追い出すようにして断られた家も足ります。
なかなかこちらもそんなことでは凹みません。
半年、1年と注文を聞きに行きましたけど、石の上にも3年ということわざをたのしみにあくまで頑張り続けました。
これはあとになりまして、大変立派に実ることができました。
辛抱は金であると昔の人は良いことを言っております。
~野村徳七~
(6) (料亭(花外楼)の女将から自作の絵を所望され、自分自身で風呂敷に包んだ作品を玄関から届けず花外楼の勝手口から入り届けた時の言葉)
えらい遅うなって済まんことやけどどうやら書けたんで持って来ました。
使いの者に持たせたのでは血が通よわんよって、どうや、気に入ってもらえるやろか。
~野村徳七~
(7) (投資家信託を手がけた際に役員会で全員が反対した時の言葉)
新しい事業はみんなが賛成してはうまくいかない。少なくとも、八割が反対するくらいの事業に価値がある。
もし、元本保証ということがひっかかるのなら、私財を投じて保証する。
~野村徳七~
(8) 自己の利益よりも顧客の利益を先にす。
~野村徳七~
(9) 船は沈むが、株は沈まない。
~野村徳七~
(10) 企業家たるものは、7割の確実性をつかむために玉の汗を流すと同時に、一度、その7割の確実を握ったら、目先の小さな危険を突き飛ばして、突き進むだけの勇気と用意がなければならない。
~野村徳七~
(11) (大金庫を購入した時の言葉)
空っぽにしておく。
この金庫から出ていった札束が他の札束を連れて戻ってくるように。
~野村徳七~
(12) 我々証券業者は、我々の商品について、もっと充分な認識を持たねばならぬ。
公債、社債、株式等の放資(投資)は、将来必ず銀行における各種預金と比して、優るものとしてもっと歓迎されるべき時代がくるのではないか。
然るにこれを妨ぐるものは取り扱ふ業者の人格が低いからである。
一面に放資知識が極めて幼稚なるがためである。
~野村徳七~
(13) 我々は現に投機業者の間に持囃さる投機株、所謂流行株は固より、凡ての証券に就いて、その本質に就いての研究を、科学的になすべき責任がある。
真価を求め、真価を見出し、これを放資の対象として推奨する。宣伝する。
これこそ最も進歩せる理財行為である。
これありてこそ日々の上下騰落にも悩まされず、安心して株を有ち、社債を買うてゆけるのである。
~野村徳七~
(14) 敢然として我等は我等の信ずる道に向かって鋭意驀進すべきである。
~野村徳七~
(15) 凡ての證券に就いて、その本質に就いての研究を科学的になすべき責任がある。
~野村徳七~
(16) 株屋といふものは大体十回売って一回買えば宜し、
唯その一回の買いを何時どこで敢行するかが、難しい点である。
~野村徳七~
(17) 単に取引を行へば任務終れりとする如き器械的労務を為すのみならば、必ずしも各位の力を待たずして可なり。
~野村徳七~
(18) (欧米外遊の旅について)
世界の金融業界の最先端を走っていた金融機関の業務体制に、時には驚嘆し、時には憧憬しながらも、いつかは野村も彼等と対等に闘えるようになりたい。
~野村徳七~
(19) 株は高く買って安く売れ。
~野村徳七~
(20) 相場は、狂せり。
~野村徳七~