石原裕次郎のプロフィール
石原裕次郎(いしはら ゆうじろう)
・1934年12月28日に生まれ,1987年7月17日に亡くなる。
・昭和時代を代表する俳優、歌手であり、司会者やモデルなどのマルチタレント、また、実業家・ヨットマンとしても活動していた。
・兄は政治家で小説家の石原慎太郎。
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石原裕次郎の名言 20選
(1) 今日が雨でも明日が晴れさえすれば、すぐ乾く人生も同じである。
~石原裕次郎~
(2) 親父は殴るだけじゃないんだ。水を張ったバケツを両手に持って、庭に立たされるんだから。真冬ーそれも、夜だぜ。雪がチラチラ降ってさ。身体は寒くて震えるわ、足は感覚が無くなるわ…。でも親父は僕が立っている間、晩飯を食べないで、じっと待っているんだよ。何時間でも。それでお仕置きが解除になったところで晩飯になるんだけど ~中略~ 親父は、僕と一緒に冷たくなったご飯を食べるんだ。(親父、偉いな)とこのとき思った。怖い親父だけど、こういう親父の姿を見て、親しみというか、(近づけたな)ってね。そんなことを感じたものだ。
~石原裕次郎~
(3) 人生というのは振り返ってみて何もないずんべらぼうより、起伏が激しいほうが楽しいと思う。
~石原裕次郎~
(4) ビールは酒ではない、水である。
~石原裕次郎~
(5) 人の悪口は絶対口にするな。人にしてあげたことは、すぐ忘れろ。人にしてもらったことは、絶対忘れるな。
~石原裕次郎~
(6) ここは戦場だ!愛だの許すだの。そんなことより生きることが先だ。
~石原裕次郎~
(7) 美しき者に微笑を 淋しき者に優しさを 逞しき者に更に力を 全ての友に思い出を 愛する者に永遠を 心の夢醒める事無く。
~石原裕次郎~
(8) 僕らがちっちゃいときは、家族四人で風呂に入っていた。「お母さんもおいで」なんて、親父が呼んでさ。おふくろが途中から入ってくるんだ。だから、いま当時を振り返ると、すごく微笑ましくてね。「よかったな」というイメージしか残っていないんだ。
~石原裕次郎~
(9) 人間は自分がどうなるかって事さえ、その時になってみるまでわからんもんです。
~石原裕次郎~
(10) 兄貴は、僕の尊敬する人物の一人だ。小さいときから、そうだった。遊びのことでも、スポーツのことでも、試験勉強のやり方でも、兄貴の言うとおりやれば、まず間違いないと思っていた。こうなると、もう一種の信仰だね。だから、あいつの言うことはよく訊いた。いまでもそうだ。
~石原裕次郎~
(11) 大きい枝に、小さく咲く花が好きだ。たとえば、桜。パッと咲いて、パッと散る。武士のように爽やかで、散りながら花びらが舞う姿は、まさに花吹雪と呼ぶにふさわしい美しさがある。
~石原裕次郎~
(12) 僕はまだ若くて単純かもしれないけどね。自分で納得のいかないことはしたくないよ。
~石原裕次郎~
(13) 俺はもう、美しい唇から出る言葉も、真珠のような涙も信じないようにしてきた。
~石原裕次郎~
(14) もし、「石原裕次郎」が芸名であったら、たぶん腹は立たなかったろうと思う。本名だから、呼び捨てにされると頭にくる。僕を呼び捨てにできるのは、そのころすでに親父はなくなっていたから、この世の中で、おふくろと兄貴の二人しかいないわけだ。たとえ時の総理でも、俺を呼び捨てにしたら許さない…当時の僕は、それぐらいの気構えがあった。
~石原裕次郎~
(15) 人が何と言おうが、自分じゃ不良とは思っていなかったね。友達が何人か集まってワーワーやるのが楽しいわけで、自分じゃ、健康的で、模範的な学生だと思っていた。
~石原裕次郎~
(16) あんたと俺の間には目に見えない海があるんだ。どうにもならない海が。
~石原裕次郎~
(17) 学校VS学校、これが、僕らが高校生のころのケンカだった。~中略~ 学校対学校だから級友の誰もが愛校精神に富んでいた。何より友情を重んじた。先生も、崇めた。そういう意味で、学校VS学校のケンカというと大げさに聞こえるかもしれないけど、少なくとも僕たちの精神は非常に健康的だったということは言えると思う。
~石原裕次郎~
(18) 確かに、6・3・3制の義務教育という制度は、占領統治下ではそれなりに意味があったと思う。だけど、この制度は受験戦争を生み、教師をマシン化させるという弊害を引き起こした。いまの日本の現状を考えれば、やはり6・6制という昔の制度に戻すのがいいと思う。そうすれば受験制度もなくなり、教師も血が通った教育ができるだろう。戦後かなりの時間がたって、義務教育というものをありがたがる時代は去ったのではないか。少なくとも僕はそう思っているんだ。
~石原裕次郎~
(19) お前さんのこと、弟みたいに好きだった。
~石原裕次郎~
(20) 逢えるじゃないか、またあした。
~石原裕次郎~