エーリヒ・フロムのプロフィール
エーリヒ・フロム
・1900年3月23日に生まれ,1980年3月18日に亡くなる。
・ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者。ユダヤ系。
・マルクス主義とジークムント・フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けた。
・新フロイト派、フロイト左派とされる。
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エーリヒ・フロムの名言 30選
(1) 苦悩や服従や自殺が、生の積極的な目標に対するアンチテーゼであることは疑いない。
~エーリヒ・フロム~
(2) マゾヒズム的人間は、外部的権威であろうと、内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、ともかくそれらを主人とすることによって、決断するということから解放される。すなわち自分の運命に最後的な責任をもつということから、どのような決定をなすべきかという疑惑からも解放される。
~エーリヒ・フロム~
(3) 自発的に行動できなかったり、本当に感じたり考えたりすることを表現できなかったり、またその結果、他人や自分自身に対して偽の自我を表さなければならなかったりすることが、劣等感や弱小感の根源である。
~エーリヒ・フロム~
(4) サディズム的人間は、彼が支配していると感じている人間だけを極めてはっきりと「愛し」ている。妻でも、子でも、助手でも、給仕でも、道行く乞食でも、かれの支配の対象にたいして、かれは愛の感情を、いや感謝の感情さえ持っている。かれらの生活を支配するのは、彼らを愛しているからだと、彼は考えているかもわからない。事実は彼は彼らを支配しているから愛しているのだ。彼は物質的なもので、賞賛で、愛を保証することで、ウィットや光彩ある才気で、関心を示すことによって、他人を買収している。彼はあらゆるものを与えるかもわからない―――ただ一つの事をのぞいて、すなわち自由独立の権利をのぞいて。
~エーリヒ・フロム~
(5) 愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
~エーリヒ・フロム~
(6) 一人の人間を愛するということは、人間そのものを愛することでもある。
~エーリヒ・フロム~
(7) 愛情深い母親になれるかなれないかは、進んで別離に堪えるかどうか、そして別離の後も変わらず愛しつづけることができるかどうかによるのである。
~エーリヒ・フロム~
(8) 愛は、愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。
~エーリヒ・フロム~
(9) 「愛されるから愛する」というのは幼稚な愛です。「愛するから愛される」というのが成熟した愛なのです。
~エーリヒ・フロム~
(10) 愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏みこむ」ものである。愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
~エーリヒ・フロム~
(11) 人間が完全に自然から離れることはない。あくまで人間は自然の一部だ。
~エーリヒ・フロム~
(12) 愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
~エーリヒ・フロム~
(13) 人は愛する者のために働く生き物なのです。
~エーリヒ・フロム~
(14) 人生の意味はひとつしかない。生きるという行為…それ自体なのです。
~エーリヒ・フロム~
(15) 一人の人を本当に愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。
~エーリヒ・フロム~
(16) 自分の役に立たないものを愛する時にはじめて、愛は開花する。
~エーリヒ・フロム~
(17) 大抵の母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親はごく少数しかいない。蜜を与えるためには、母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならない。
~エーリヒ・フロム~
(18) 人間が自分で意味を与えないかぎり、人生には意味がない。
~エーリヒ・フロム~
(19) 何かをもらうために与えるのではありません。与える事自体がこの世で一番の喜びなのです。
~エーリヒ・フロム~
(20) 集中力を身につけるためには、くだらない会話をできるだけ避けることが大事だ…くだらない会話を避けることに劣らず重要なのが、悪い仲間を避けるということである。
~エーリヒ・フロム~
(21) 一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。
~エーリヒ・フロム~
(22) 自分自身を信じている者だけが、他人にたいして誠実になれる。
~エーリヒ・フロム~
(23) 合理化は、現実を洞察する手段ではなく、自分自身の願望を、存在する現実と調和させようとする事務的な試みである。
~エーリヒ・フロム~
(24) 能動的な思考から生まれてくる思考は、常に新しく独創的である。独創的ということは、必ずしも他の人間が以前に考えなかったという意味ではなく、考える人間が、自分の外の世界にしろ中の世界にしろ、そこになにか新しいものを発見するために、その手段として思考を用いたという意味においてである。
~エーリヒ・フロム~
(25) 良心は、外的権威と同じような冷酷な支配者であること、また人間の良心によってあたえられる秩序の内容は、結局個人的な自我の要求によってよりも、倫理的規範の威厳を装った社会的要求によって左右されやすいものであるということが明らかになっている。
~エーリヒ・フロム~
(26) 権威は常に、何時はこのことを成せ、あのことをなすべからずと命令するような個人や制度であるとは限らない。この種の権威は、外的権威と名付けることができるであろうが、権威は、義務、良心あるいは超自我の名のもとに、内的権威としてあらわれることもある。
~エーリヒ・フロム~
(27) 偽の自己は、実際には他人から期待されている役割を代表し、自己の名のもとにそれを行う代理人に過ぎない。
~エーリヒ・フロム~
(28) 指導者の性格構造は、かれの主張を受け入れるひとびとの特殊な性格構造を、より端的にはっきりとあらわしていることが多い。指導者は、その支持者がすでに心理的に準備している思想を、よりはっきりと率直にのべているのである。
~エーリヒ・フロム~
(29) 愛は誰かに影響されて生まれるものではなく、自分自身の愛する能力にもとづいて、愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。
~エーリヒ・フロム~
(30) 愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。
~エーリヒ・フロム~