エミール・シオランのプロフィール
エミール・ミハイ・シオラン
・1911年4月8日に生まれ、1995年6月20日に亡くなる。
・ルーマニアの作家・思想家。
・若年期のエクスタシー経験と、メランコリー、鬱、不眠など、生涯にわたる精神的苦悩をもとに特異なニヒリズム的思索を展開した。
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エミール・シオランの名言 20選
(1) あらゆる到達点は、人生においても芸術においても行き止まりである。全てにおいて、未達成によって未来への門を開けておくことが肝要だ。
~エミール・シオラン~
(2) かつて、哲学者がものを書かずに思索にふけっていて軽蔑を受けることはなかった。ひとが有効性の前にひれ伏してこのかた、作品が俗人の絶対となった。作品を製産しない人々は「落伍者」とみなされている。しかし、この「落伍者」が前の時代には賢者なのであった。
~エミール・シオラン~
(3) 自分の病弱や不具に、私達の存在は腐蝕される。そこから生ずる空虚を充たすのは、意識の現存だ。いや、冗談ではない、この空虚こそが意識であるのだ。
~エミール・シオラン~
(4) 希望とは未来に対してつく嘘である。
~エミール・シオラン~
(5) 自分の辞書から私は言葉を一つまた一つと抹殺していった。大虐殺の済んだあと、たった一語、災禍を免れた言葉があり、それが孤独というのであった。満足して目を覚ました。
~エミール・シオラン~
(6) かつてゴーゴリは甦生を得ようという望みを抱いてナザレに赴き、その地でロシアのとある駐車場でのように退屈したという。自分の内部にしか存在しないものを、外部に求めようとすれば私たちは皆そういう羽目に陥るほかはない。
~エミール・シオラン~
(7) 出生以前には、世に存在しないという好運にもあずかることができた。今や私たちは存在しており、この存在の小部分、つまり不運の小部分こそが、消滅することを烈しく怖れるのである。
~エミール・シオラン~
(8) 何か侮辱を受ける度、仕返しの衝動を一切遠ざけてしまうために、自分が墓穴にしんと納まっているところを想像する。たちまちにして私の心は和んだものである。
~エミール・シオラン~
(9) 作品は死ぬ。断章は、かつて生きたことがない以上、死ぬこともありえない。
~エミール・シオラン~
(10) 子どもを産むことは、災いを増大させることに他ならない。存在しないよりは存在する方がマシだということを証明するいかなる方法も存在しない。赤ん坊を他人に見せ、潜在性のこの災厄を見せびらかしては悦に入る。これはもう理解を絶した狂気の沙汰だ。
~エミール・シオラン~
(11) 素朴さ、楽天主義、寛大さ、そういったものは園芸家や純粋科学の専門家、探検家などには見られるが、政治家や歴史家、坊主には決して見られないものだ。前者は同類なしで済むけれど、後者は同類たちをもって彼らの活動、研究の対象とする。人は人間の傍でのみ気難しくなる。
~エミール・シオラン~
(12) 野心という中和剤を欠けば、明晰さはいずれ意気消沈に至る。一個の作品が可能となり、生そのものが可能となるためには、明晰さと野心とが互いに支え合わねばならず、両者が、相手を打ち負かすことなく、戦いを交えねばならない。
~エミール・シオラン~
(13) 確かに私は人間を嫌悪しているが同じような気安さで人間存在を嫌悪しているとは言い切れない。なぜかというと、この存在という語には、何はともあれある充実した、謎めいた、魅惑的なものがあり、その点、人間という観念とはまるで違っているからである。
~エミール・シオラン~
(14) 人間は身体などを引きずらなくてもよかったはずだ。我の重荷だけで充分のはずだった。
~エミール・シオラン~
(15) 一度崇め奉った相手を人は決して許すことができない。世にも繊細なあの讃美という鎖を断ち切ろうと待ち構えている。しかもそれが傲慢から出たことではなく己を取り戻したい、自由になりたい、自己自身でありたいという切望のためなのだ。この切望を、人は不正手段による他、満たす手段がない。
~エミール・シオラン~
(16) 今日まで私がなんとか持ち堪えてきたのは、もはやこれまでかという失意の底まで墜ちるたびに、もっと苛烈な新しい失意が連続してきたからである。もし、私が地獄に墜ちでもしたら、地獄の支配圏がさらに数を増すよう希うだろう。新しい、前のよりはずっと内容に富んだ苦難を当てにできるからである。
~エミール・シオラン~
(17) 死に取りつかれると、希望という逃げ道も理性の説く道理も何の役にも立たなくなる。無意味なだけに、かえって死への欲望をかきたてるばかりである。この欲望に打ち勝つ方法はただ一つ、死への欲望そのものをとことんまで生きぬくこと、その喜悦と苦悩を一身に浴び、回避行為を一切やらないことである。
~エミール・シオラン~
(18) 一切事象を非実在と見れば、見る者自身が非実在となる。活力がいかに旺盛で、本能がいかに絶対的なものであろうと。彼はついに生ける屍に似はじめるのである。このとき、本能はもはや贋の本能にすぎず、活力もまた贋の活力に過ぎない。
~エミール・シオラン~
(19) 私たちは二人とも、何も喋ることがなかった。そして私は自分が何か無意味な言葉を並べ立てているあいだ、地球が空間の底へ沈んでいき、目眩を起すほどの速さで、私もまた地球と共に墜落してゆくような気がした。
~エミール・シオラン~
(20) 責任という問題は、出生以前に私たちが相談を受け、現在ただいまそうあるごとき人間になってよい、と同意したのでなければ、そもそも意味を持ちえないはずである。
~エミール・シオラン~