王陽明の名言30選|心に響く言葉

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王陽明のプロフィール

王陽明(おう ようめい)
・1472年10月31日に生まれ、1529年1月9日に亡くなる。
・中国明代の儒学者・思想家・高級官僚・武将。
・思想家として朱子学を批判的に継承し、読書のみによって理に到達することはできないとして、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理をもとめる実践儒学陽明学を起こした。
・一方で武将としても優れ、その功績は「三征」と呼ばれている。
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王陽明の名言 30選

(1) 私は、いったいいつ、あなたに書類整理や訴訟処理をうちすてて、実務から離れて学問を究めなさいと教えたかね。あなたにはちゃんと役人としての仕事があるのだから、役人としての仕事を遂行するなかで学問をしなさい。それでこそ真の、主客関係を正しくするということです。たとえば、ある訴訟事件を訊問調査するという場合、被疑者の態度が横柄だからといって怒ったりしてはいけないし、彼らの陳情が如才ないからといって喜んでもいけないし、罪を軽くするようにと依頼されたことを嫌ってことさら厳しく処罰してもいけないし、その請願に屈服して要求のままにしてもいけない。

~王陽明~

(2) 知るは難(かた)く、行うは易し。

~王陽明~

(3) 良知は人間だれにでもあるのであって、たとえきみたちがどうしようと、なくすことはできない。盗賊とて、盗みをしてはいけないとはわかっているから、賊徒といわれると、彼も大いに恥じ入るのだ。

~王陽明~

(4) 諸君が努力する際には絶対むやみに進歩しようとしてはいけない。素質のとびきりすぐれた人はまずは皆無なのだから、学ぶ者が、聖人に一足とびに飛躍する道理など無い。起き上がったり転んだり、進んだり退いたりするのがあたりまえの努力なのである。昨日はちゃんと努力できたのに、今日になってできないからといって、むりにとりつくろって破綻のないようなふりをするのは、これこそがむやみに進歩しようとすることであって、さきの努力をさえもすっかりだめにしてしまうから、これは小さな過失ではない。たとえば、道行くひとが、けつまづいて転んだなら、おきあがってまた歩くようなものだよ。転ばなかったふりをして人を欺くことはないのである。

~王陽明~

(5) 仏教者は親子関係のわずらわしさを恐れるからこそ、親子関係から逃避したのである。君臣関係のわずらわしさをおそれるからこそ、君臣関係から逃避したのである。夫婦関係のわずらわしさをおそれるから、夫婦関係から逃避したのである。おしなべて、君臣・親子・夫婦の関係という現実態に執着するからこそ、逃避することになるのである。吾が儒教では、親子という関係は、それを本来の「仁」という関係に還元し、君臣関係はそれを「義」に還元し、夫婦関係はそれを「別」に還元してしまう。なんで親子・君臣・夫婦関係の現実態に執着することがあろうか。

~王陽明~

(6) 人々がもしも着実に努力をしたならば、人々から誹謗されようと、欺瞞されようと、それぞれが益となり、それぞれが人格を高める機会になる。もしも努力をしないと、それこそが悪魔のはたらきとなり、結局はそれにすっかりふりまわされてしまうものなのである。

~王陽明~

(7) 知識と行動を二つに分けることはできない。まず知ることが大事で知って初めて行うことができるという考えは間違いである。知と行はもともと一つのものだからだ。

~王陽明~

(8) 努力することを手がけたばかりで、どうして腹のなかまで光りかがやくようにできようか。たとえば、ほとばしっている濁流を瓶の中に貯えたばかりのときは、はじめは流れがとまっても、やはり混濁した水である。流れをとめて澄ますことしばらくすると、自然と不純物はすっかりなくなって、もとのきれいな水になるようなものである。きみはひとえに良知に立脚して努力しなさい。良知が発現されること久しければ、まっくろなものも自然と光りかがやくようになる。いま速効を求めようとするのは、むしろなくもがなの作為であって、努力したことにはならないよ。

~王陽明~

(9) 他人を論難しようと思ったときには、それこそ一つの大きな私的感情だとみなして克服してこそはじめてよいのだ。

~王陽明~

(10) ともかく理解するようにしなさい。どうして記憶する必要があろうか。理解しようとすることさえ、すでに第二義におちてしまっている。ともかく自己の本体を発現しようとすることだ。もし、むやみに記憶しようとすると、理解できないし、もしもむやみに理解しようとすると、自己の本体を発現することができないものだよ。

~王陽明~

(11) 天下のこと万変といえども、吾がこれに応ずるゆえんは、喜怒哀楽の四者を出でず。

~王陽明~

(12) 人は皆聖人である。しかし、時間が経つにつれ私欲が生じ、物欲が生まれ、他人と自分とを一体のものだと考えられなくなる。だから本来持っている聖人の心に戻るために、私欲に打ち克たなければならない。

~王陽明~

(13) 一棒痛打しては一筋の痕がつき、一つびんたをくらわせては掌のあざがつく(一棒一条痕、一摑一掌血)。

~王陽明~

(14) 心の外に道理はなく、心の外に物はない。全ては心の中にある。

~王陽明~

(15) 仕事が上手くいかないことを心配するのは名誉欲や損得の欲にひきつけられて、本来持っている善心を発揮できないからである。大事なのは結果を求めるのではなく、欲に克ち本来持っている善心を発揮することだけだ。

~王陽明~

(16) ひとえに良知が真に発現するようにしさえすれば、受験勉強をしても、心のわずらいとはならない。たとえ、わずらわされても、容易に気がつき克服できる。たとえば、書を読んでいるときに、むりやり暗記しようとするのは正しくないと良知が判断したなら、すぐさまそれを克服する。速成の効果をあげようとする正しくないことがおこれば、すぐさま克服する。博識を鼻にかけ華やかさを競うという正しくないことがおこったら、すぐさま克服する。こんなふうに一日中聖人賢者と対照するのは、主体者が天理のままになることに他ならない。書を読むにせよ、それとて主体を調え保つことに他ならないから、なんのわずらいもないのだよ。

~王陽明~

(17) われら儒者が主体を涵養する場合、けっして主客関係と遊離したりしないで、ひたすら天然自然の法則にまかせること、それこそが努力することになるのである。仏者は、むしろ、主客関係をすっかり絶縁しようとし、主体を真に存在するものではないとみなすから、だんだんと虚無寂滅の世界に埋没してしまい、世俗社会とはつゆほどの交渉も持たないようになってしまう。だから仏者は天下を統治することができないのだよ。

~王陽明~

(18) 人々がもしも着実に努力をしたならば、人々から誹謗されようと、欺瞞されようと、それぞれが益となり、それぞれが人格を高める機会になる。もしも努力をしないと、それこそが悪魔のはたらきとなり、結局はそれにすっかりふりまわされてしまうものなのである。

~王陽明~

(19) 人間の主体そのものは天や淵と同じである。我々の本体はすべてを包括しているから、もともと一つの天なのである。ただ私的欲望にさえぎられるために、天の本体が見失われてしまうのだよ。我々の創造発見するのは果てしがありませんから、もともと一つの淵なのである。ただ私的欲望にふさがれているために、淵の本体が見失われてしまうのだよ。もしいつも良知を発揮することを自覚して、このさえぎりふさぐ原因をすっかり取り去ったならば、本体はもはや回復するから、もとの天・淵になるのさ。

~王陽明~

(20) 目そのものに実体はなく、万物万象の色が実体である。耳そのものに実体はなく、万物万象の声音が実体である。鼻そのものに実体はなく、万物万象の臭いが実体である。口そのものに実体はなく、万物の味が実体である。心そのものに実体はなく、天地万物と感応して判断された是非が実体である。

~王陽明~

(21) 私の場合、最も重要な点はただ日に減らすことを求めるにあり、日に増やすのを求めることにあるのではない。一分でも人欲が減らせたら、それはその一分だけ天理を回復できたということで、なんと軽快で簡単なことではあるまいか。

~王陽明~

(22) 心が明らかになれば自ずと道も明らかになる。

~王陽明~

(23) 聖人を信じて教えに素直に従うのもいいことだが、本来持っている善心に従うほうがよい。

~王陽明~

(24) 学問は自分の心の中に刻まれるのが第一義である。もし自分の心に照らし合せて、誤りだと思ったら、たとえ孔子の言葉であろうとも、それを正しいとしてはいけない。

~王陽明~

(25) 知行合一(ちこうごういつ)。

~王陽明~

(26) 家屋を建設することにたとえるならば、『道に志す』とは、土地を選び資材をあつめてきりもりして住宅を完成させようといつも意欲を持ちつづけることであり、『徳にもとづく』とは、計画がすべて完成し、生活の根拠ができたことであり、『芸に遊ぶ』とは内装を施して住宅を美しく仕上げることである。詩を朗誦し書物を読み、琴をつまびき射的を習うということなどは、実践主体を調教して道に習熟させる方法である。もしも、道を志向しないで芸にうつつをぬかすようでは、もののわからぬ子供が、先に住居をつくることもしないで、やみくもに絵画を買い込んでは正門に掛けようとするようなもので、いったい、どこにかけようというのかね。

~王陽明~

(27) 人間性を回復する学問にいそしむ場合、あらゆる名声や利益、嗜好などについてはいずれもすっかり洗い落とすことができたとしても、それでもなお生に執着し死を恐れる意識がすこしでも残っていたら、それは不純な意識が融解しないままに完全な本体を覆っていることになる。人間にとって生に執着し死を恐れる意識は、もともと身体を持つ存在として生まれた当初からおびてきたものであるから、その意識を排除するのは容易ではない。もし、このことがはっきり理解でき、すっかり得心がいったならば、我々人間の完全な本体はそれでこそ自由自在に発現し、それでこそ「本性を発揮し天命のままになる」学問なのである。

~王陽明~

(28) 意図して理解するということもなく、それでいてどんなものでも理解する。良知の本体とはもともとそうしたものである。たとえば太陽は、意図してある物を照らそうとしたことはついぞなかったが、おのずからどんなものでも照らしている。意図して照らすということはなく、どんなものでも照らすというのが太陽の本体である。

~王陽明~

(29) 人生最大の病患は傲慢の一事に尽きる。子でありながら傲慢であると不孝をしでかし、臣でありながら傲慢であると不忠をしでかし、父でありながら傲慢であると不慈をしでかし、友でありながら傲慢であると不信をしでかす。

~王陽明~

(30) 古今の聖賢のあらゆる議論の端々に至るまで全て、思いに邪なし、の一言で要約できる。これ以上、何を言うことがあろう。これこそ、一を知って百に通じる功夫なのだ。

~王陽明~

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