岡倉天心のプロフィール
岡倉天心(おかくらてんしん)
・日本の思想家、文人。
・本名は岡倉覚三(かくぞう)。幼名は岡倉角蔵。
・1890年(明治23年)から3年間、東京美術学校でおこなった講義「日本美術史」は日本(の美術史学)における日本美術史叙述の嚆矢とされる。
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岡倉天心の名言30選
(1) 見せびらかすのではなくて、ほのめかすといふこと、これが、無限なるものの秘訣なのだ
~岡倉天心~
(2) われわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう
~岡倉天心~
(3) 茶道の本質は、不完全ということの崇拝――物事には完全などということはないということを畏敬の念をもって受け入れ、処することにある
~岡倉天心~
(4) 私たち日本人の住居、習慣、衣服や料理、陶磁器、漆器、絵画、そして文学にいたるまで、すべて茶道の影響を受けていないものはない
~岡倉天心~
(5) 孔子は言っている、「人は隠したりするものだろうか」と。私たちには隠さねばならないような偉大なものなどないので、些細な事柄にも自分をあらわにしがちになるのだろう
~岡倉天心~
(6) 教育とは、強固な幻想を維持するために一種の無知を奨励するものにほかならない
~岡倉天心~
(7) 永遠とは、物質ではなく、精神にしか見出すことのできないものであって、こうした簡素な建物(茶室、数寄屋)はその精神のあらわれなのであり、そうであればこそ、洗練をきわめたほのかな輝きを帯びて、かくも美しいのだ
~岡倉天心~
(8) 物事のバランスを保ち、自分の位置は確保しながら他人にも譲るというのがこの世のドラマを成功させる秘訣なのだ
~岡倉天心~
(9) 道教は儒教や仏教とはちがって、なげかわしいこの世の暮らしのうちにも美を見出そうとするのだ。酢の味見をする3人の者という宋のたとえ話は、見事に、これら3つの思想の特質を浮き彫りにしている。釈迦と孔子と老子の3人が酢の壺――人生の象徴――の前に立って、それぞれ指を浸しては味見していたが、実際家の孔子は酸っぱいと言い、仏陀は苦いと言い、老子ひとりが甘いと言ったというのである
~岡倉天心~
(10) 芸術は、その時代の暮らしにぴったりとしたものであって初めて本当に理解されるものなのだ
~岡倉天心~
(11) 私たちは大抵の場合、あまりにでしゃばり過ぎであり、いくらうぬぼれが強いといっても、これ以上自分を眺めて悦に入るというのは単調退屈でしかない
~岡倉天心~
(12) 伝統や定式につき従っているだけでは、建築における個人性の表現に足かせをはめてしまうことになる。ギリシャ人が偉大であったのは、けっして昔に頼ろうとしなかったからだと言われているではないか
~岡倉天心~
(13) いくつもの音楽を同時にきくことができないように、美というものは、なんらかの中心となる要素に集中して初めて本当に理解することができるのだ
~岡倉天心~
(14) 私たちの心は、芸術家によって彩られるカンバスであり、その絵の具となるのが私たちの感情で、明暗となるのが私たちの喜びの光であったり、悲しみの影であったりするのだ
~岡倉天心~
(15) 芸術鑑賞に必要なのは心と心が共感し、通い合うことだが、そのためには、互いに謙譲の気持ちを持ち合わねばならない
~岡倉天心~
(16) 洋の東西を問わず、巨匠たちは、観客を自分の秘密にひきずりこむ手段として暗示の価値を忘れることはなかった
~岡倉天心~
(17) 同時代の芸術こそは、真に私たちの芸術なのであり、私たち自身の反映なのだ。それを断罪することは、私たち自身を断罪することにほかならない
~岡倉天心~
(18) 自己中心的な虚栄というものは、芸術家、鑑賞者いずれの側であっても、共感を育むうえで致命的な障害となるのである
~岡倉天心~
(19) 現代の芸術家は、技術に溺れるあまり、滅多に自身を超えるということがない
~岡倉天心~
(20) どの時代をとってみても、芸術が最終的に完成した型としてあらわれるというようなことはない。芸術とは絶えざる成長
~岡倉天心~
(21) 昔の賢者たちは決して体系的な形で教えを語ったりしなかった。彼らは好んで逆説的な言い方をしたが、それは生半可な理解を恐れたからである
~岡倉天心~
(22) 本当に重要なのは完成そのものではなく、完成することだ
~岡倉天心~
(23) 面白いのは行為そのものではなくて、その行為にいたる経過だ
~岡倉天心~
(24) 絵に良い絵と悪い絵があるように茶にも良い茶と悪い茶があるのだ。しかし、完璧な茶をたてる唯一これだけというやりかたがあるわけではない
~岡倉天心~
(25) 人生にせよ、芸術にせよ、これからさらに成長していく可能性があればこそ生き生きしたものとなるのだ
~岡倉天心~
(26) 強力な思想というものは同時代の思想を論破するとともに、これに続く時代の動きを支配するものだ
~岡倉天心~
(27) 宗教は未来を後ろ盾としているが、芸術では現在こそが永遠なのである
~岡倉天心~
(28) 偉大な思想で簡単に説くことのできるものなどありはしない
~岡倉天心~
(29) 自分で偉大だとうぬぼれているものが実はちっぽけなものにすぎないことがわからない者は、ちっぽけと軽んじている他人のものが実は偉大なものであることを見過ごしがちである
~岡倉天心~
(30) 日々の暮らしぶり、そのなにげない仕草のうちに、内心の動きはあらわれる
~岡倉天心~